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コラム 授業のひとこま 第12回 平安時代のイレギュラーな四季観

2022-11-25

第12回 平安時代のイレギュラーな四季観
瓦井裕子(人文科学研究科・人文科学部准教授/日本文学(古代))

もうすぐ十一月が終わります。多くの方は、十二月に入ると冬になったと感じるのではないでしょうか。同様に、三月になれば春だと思う方も多いでしょう。これは、季節をカレンダーとリンクさせて捉えていると言えます。一方で、天気予報などでは、「今年は短い秋となりそうです」「週末には気温が上がって一気に夏がやってきます」というような表現をよく耳にします。また、桜が散るのを見て「春ももうすぐ終わる」と言ったり、雪がちらつくのを見て「冬が来た」と口にしたりすることがあります。これらを見ると、私たちはカレンダーだけでなく、気温や景物によっても季節を捉えていて、複合的に四季を判断していると言えそうです。

それに比べると、平安時代の四季は、基本的にはもっと明確でした。春は一月一日から三月末日まで、夏は四月一日から六月末日まで、とカレンダー上の三ヶ月刻みで季節が変わっていきます。当時採用されていた太陰太陽暦は、現代の暦とは一ヶ月程度ずれるとはいえ、春の一月には雪も降りますし、かなりの暑さを保ったまま秋の七月に入っていきます。夏のはじめの日である四月一日と、冬のはじめの日である十月一日には更衣(衣替え)が行われ、着物の色合いもがらりと変わりました。今とはだいぶ事情が違いますね。

さて、平安貴族がとりわけ好んだ季節は、春と秋でした。人々は、一月の春の訪れを待ちわび、三月には過ぎていく春を惜しみました。秋も同様です。その心情は、漢詩や和歌でも表現されました。平安時代前期につくられた日本初の勅撰和歌集で、現在まで続く日本の自然観にも大きな役割をはたした『古今和歌集』の中から、秋の最後の歌を見てみましょう。

     おなじ(注:九月)晦日の日、詠める
                躬恒
   道知らばたづねもゆかむもみぢ葉をぬさと手向けて秋はいにけり
                    (『古今和歌集』・秋下・313)

九月末日、秋が帰っていってしまった道を知っているなら、秋をたずねていきたい、と言います。秋の最終日に惜秋の心を詠むこの歌には、平安時代の典型的な季節の捉え方があらわれています。

しかし、四季を区分する方法は、実はもう一種類あったようです。これは田中新一氏が、『平安朝文学に見る二元的四季観』(風間書房 一九九〇)で提唱されました。やはり『古今和歌集』から、その冒頭の歌を例にとって見てみましょう。

     旧年に春立ちける日、詠める
                  在原元方
   年の内に春は来にけり一年を去年とやいはむ今年とやいはむ
                   (『古今和歌集』・春上・1)

『古今和歌集』は春の歌から始まり、時間の経過にしたがって和歌が並べられています。冒頭、春の初めに位置するのは「旧年に春立ちける日」、つまり前年十二月のうちに立春を迎えたときの歌です。立春は、二十四節気という中国由来の季節区分の一つです。立春の日は、十二月十六日から翌年一月十五日の範囲内で毎年変わります。この歌は十二月に立春が来たときに詠まれました。

では、どうして『古今和歌集』は当時スタンダードだった、一月一日から春とする四季区分を採用せず、イレギュラーな十二月の立春の歌から始めているのでしょうか。田中氏は、これを当時の春秋偏重と関連させて考えます。春と秋はできれば長くあってほしいという人々の希望が、一月に先駆けて十二月の立春からを春と捉えようとする四季観を採用させた、それが『古今和歌集』にも反映されているのだ、としました。この説は『古今和歌集』の他の部分を見ても納得できるもので、平安の人々の季節の捉え方をよく説明しています(ただし、田中氏によると、この四季観自体は中国で生まれ、日本でも奈良時代から用いられていたとのことです)。

さて、『古今和歌集』から約百年後にできた『源氏物語』にも、カレンダー上の三ヶ月刻みの四季観からは外れるような例が複数見られます。

     伊予介、神無月の朔日ごろに下る。……今日ぞ、冬立つ日なりけるもしるく、うちしぐれて、
     空のけしきいとあはれなり。ながめ暮らしたまひて、
       過ぎにしもけふ別るるも二道に行く方知らぬ秋の暮かな
                               (『源氏物語』・夕顔巻)

源氏と関係をもった空蝉が、夫の伊予介とともに任国に下向します。それは、神無月(十月)のことでした。スタンダードな四季観では冬にあたります。しかし、源氏は和歌の中で、今が「秋の暮」だと言います。では、これが二十四節気にもとづく四季観かというと、それも違うようです。この日はちょうど「冬立つ日」、立冬の日で、二十四節気でも冬に入っているからです。『源氏物語』は、暦でも二十四節気でもない、別の四季観に基づいて季節を捉えている場合があるのです。

私は、『源氏物語』のこのような例をおおまかに二つに分けてみました。一つ目は、女君に関連して季節を捉えるとき、二つ目は、特定の行事が行われるときです。そして、一つ目の四季観の把握がどういう条件のときに発生するのかを、以前論じたことがあります。

しかし、今回見たいのは、二つ目の行事に関わるほうです。これに分類されるものは二例しかないのですが、ともに『源氏物語』中ではたいへん重要な行事です。一つは、源氏十八歳の「神無月の十日あまり」に行われた紅葉賀。一院という人物の長寿祝いの儀式で、当代きっての貴公子である源氏と頭中将が舞を披露し、絶賛を浴びます。もう一つは、源氏三十九歳の「神無月の二十日あまりのほど」に行われた六条院行幸。源氏の大豪邸・六条院を冷泉帝と朱雀院が訪れます。この二つの行事は、ともに紅葉と菊が非常に印象的に描かれています。

これらが開催されたのは、「神無月」、冬のことです。しかし、後に作品内で回想される際には、ともに「秋」のことであったとされます。二十四節気の立冬(九月十六日から十月十五日の間に位置します)がまだ来ていなかったためにあえて秋と捉えたかというと、二つ目の「神無月の二十日あまりのほど」の場合は立冬が来る下限を過ぎているので、二十四節気の問題でもないことが分かります。

では、この二つの行事は、なぜ回想の中で「秋」とされるのでしょうか。室町時代につくられた『源氏物語』の注釈書である『花鳥余情』は、「十月を秋といへるはもみちを賞する故也」、十月を秋と言ったのは紅葉を称えるためである、という見解を示します。私は今のところ、この二つの行事については、『花鳥余情』の指摘が穏当なのではないかと思っています。カレンダー上でも二十四節気でも冬ではない、女君に関連して起こる場合のような発生条件も見出しにくい。ここは『花鳥余情』の言うように、もっとシンプルに考えて、たたみかけるように描かれる紅葉と菊に影響されたためとするのがいいように感じます(特に根拠もないので論文では言えませんが…)。

この二つの行事が紅葉と菊という景物に引かれて「秋」と回想されたのなら、カレンダーや二十四節気といった既成の四季区分ではなく、体感や感覚や景物によって季節を捉える姿勢が『源氏物語』の中に確認されることになります。これらは現代の私たちの、カレンダーと気温と景物とで季節を捉える四季観につながる、かなり早い事例と言うことができるのではないでしょうか。

もっとも、景物による判断がこの後どういうふうに展開していくのか、あるいは消えてしまうのかについては調査したことがないので、現時点では分かりません。そこが埋められれば、現代の私たちが持つ四季観の源流が姿を現してくるかもしれません。