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吉備地方文化研究所 研究活動

コラム 研究のひとこま 「満祐は現場にいない」という話

2022-10-29

コラム 研究のひとこま 「満祐は現場にいない」という話

                         苅米 一志(人文科学部 総合歴史学科 教授)

 

 室町幕府6代将軍・足利義教がくじ引きで将軍になり、やがて暴政にふけった結果、赤松氏に暗殺されたというのは有名な話です(嘉吉の乱。1441年)。

 教科書の記述などでは、「赤松満祐によって暗殺され云々」とされていることが多いのですが、少し以下の史料を見てみましょう。

 室町時代の貴族・万里小路時房が記した日記『建内記(けんないき)』の嘉吉元年(1441)6月24日条です。( )内の記述は「割り書き」で、一行に二行分を入れた注記です。

 

【現代語訳】

 夕刻、前代未聞の珍事が起こった。

 赤松彦次郎教康(則祐の曽孫、義則の孫、満祐の子にあたる)が、関東公方(足利持氏)征伐の祝宴と称して、将軍を自邸に招いた。征伐以後、有力な守護大名はこうした宴をしばしば催していたのである。

 未の刻、将軍義教(四十八歳。義満の子で、義持の弟である。天台座主で義円と称したが、応永三十五年に還俗して将軍となった)が赤松邸に至り、諸大名もこれに相伴した。邸宅は西洞院以西、冷泉以南、二条以北にあり、相伴した大名というのは、管領細川持之、畠山持永、山名持豊、細川持常、大内持世、京極高数以下の面々である。

 猿楽三番および盃酌五献が終わった時分、不意に将軍の背後の障子が開いた。

 甲胃をつけた武者数十人が乱入してきたかと思うと、たちまちのうちに将軍を殺害してしまった。

 その場にいた管領以下の大名たちは、すぐさま座を立って逃れ、抜刀して防戦したのは、わずかに大内・京極のみであったという。

 公家の側では、たまたま相伴していた三条実雅が、弓矢取る家柄でもないというのに、調度品であった金覆輪の太刀を抜いて防戦した。

 その他の近習の者たち・・・細川持春・山名熈貴らはよく戦い、山名は討ち死に、細川は腕を切り落とされ、それでも何とか子供を救って脱出した。走衆の遠山および細川の傷は深く、家にいたったのちに死去したという。

 将軍の首は赤松が持って行ってしまい、山名熈貴の首も取られた。彦次郎教康と叔父・則繁に率いられた一党はみな剣を佩き、二条を西へ、さらに大宮を南へ行軍した挙句、堂々と西国に逃げていった。もはや追いかけようとする者もなかった。幕府として、不甲斐ない話であろう。

 味方もないこととて、三条実雅卿は仕方なくその場を去った。耳のつけ根や腿に傷を負ったという。

 赤松が邸宅に放火したため、将軍の亡骸は回収できなかった。ひどい話である。

 教康の父・満祐は、昨年から精神に異状をきたして蟄居していたので、その時刻には冨田入道の宿所にいたが、これも輿に乗って落ちのびた。

 

 見て分かるとおり、実行犯はあくまで赤松教康であって、父の満祐の方は「昨年から精神に異状をきたして蟄居」していたことになります。

 ただ、それは「自分が足利義教に征伐されるかも知れない」と悟り、演技をしていたのかも知れず、息子の教康に対し、暗殺を命じたのも満祐かも知れません(教唆役)。

 とはいえ、教康が実行犯であることは動かず、この点で「赤松満祐が暗殺した」とするのは、正確さの上でためらわれます。

 もっとも、教科書などの記述には字数の制限があり、また播磨国守護である赤松満祐の名前は出せても、その息子の名前まで出すのは、難易度としてどうか・・・という思惑があるのも十分に理解できます。

 

 特に揚げ足取りをしたいわけではなく、むしろここで言いたいのは「一般的な歴史叙述について、その根拠となる資料にあたっただけでも、何かしらの発見がある」ということです。

 いくつか挙げると、「東大寺にはその前提となる寺院が8世紀初頭に存在していた」、「源頼朝によって守護・地頭が置かれたのは1185年だが、それ以前に地頭は存在していた」等々があります。

 これらについても史料を検索すれば、比較的簡単に分かります。

 

 ところで、上記の記事には「三条実雅」なる貴族が、獅子奮迅の働きをしたことが述べられています。

 その理由は、どういうものだったのでしょうか。

 

 実は、この十年ほど前の永享2年(1430)5月、三条実雅が後小松上皇の女房の一人である一条局(日野盛光の娘)を懐妊させるという事件がありました。

 三条実雅は足利義教に近く仕えていたので、さっそく後小松上皇は彼の処分を義教に訴えました。

 ところが、義教は実雅がよほど可愛かったらしく、彼を許してほしいと嘆願しました。

 すぐに上皇が承知するわけもありませんが、義教はとうとう「以前にも他の貴族による同様な例があったのに、そこまで遡って処分しないのでは納得できない。もしお許しがなければ、今後、上皇とのお付き合いは考えさせて頂く」という脅しをかけました。

 結局、上皇は周辺のすべての男性に対し「天皇と上皇の女房以下、どういう立場にあっても宮中の女性と性的関係を持ってはいけない」と命じ、さらに彼らに起請文(誓約書)まで提出させました。

 これで、ようやく実雅は「お咎めなし」という結果を得たのです(以上、『看聞日記』永享2年5月11日条)。近く仕えていたこともありますが、こうした義教の思いやりに、実雅は深く恩義を感じていたのでしょう。

 

 このあとの赤松氏をめぐっては、色々と興味深い事実があります。

 

 この直後に播磨にくだった赤松氏は、備中の井原にいた足利直冬(尊氏の実子。直義の養子)の孫にあたる人物を捕らえ、これを自分たちの旗頭として擁立しようとします。

 この人物はもともと禅僧だったのですが、これを還俗させ「足利義尊」と名乗らせました。赤松氏は、彼の名前で文書を作成し、諸方の武将に対して協力を呼びかけています(以上、『東寺執行日記』嘉吉元年7月18日条、『建内記』嘉吉元年7月~9月条など)。

 もし、味方する武将が多ければ、もう一つの室町幕府ができていた可能性も(わずかながら)あることになります。もっとも、それは赤松氏の滅亡により、見果てぬ夢となりました(赤松氏は15世紀半ば、庶流にあたる家系が幕政に復活)。

 

 一方、実行犯の一人であったらしい赤松則繁は、一族の滅亡ののち、九州に落ちのびたようです。

 

 『建内記』嘉吉3年(1443)6月23日条を見てみましょう(細川重男『論考 日本中世史』文学通信、2022年、174~179頁参照)。

 

 【現代語訳】

 高麗国(実際は李氏朝鮮)からの朝貢使が来朝し、先日将軍足利義勝に拝謁したという。

 伝え聞くところによると、赤松左馬助則繁(満祐の弟。謀反人である)は一昨年、播磨に落ちのび、行方知れずとなっていたが、九州の菊池氏を頼り、さらに朝鮮半島に渡った。

 朝鮮では一カ国程度を占領してしまったので、朝鮮側は非常に困っているということを訴えた。

 そこで、幕府としても則繁を退治するようにとの命令を出した。

 

 九州から朝鮮半島に渡り、おそらく倭寇のような海賊行為を働いていたのでしょう。

 よほど暴虐が過ぎたらしく、朝鮮側からは珍しく「赤松左馬助」と名指しで退治を嘆願されています。

 さらに文安5年(1448)正月、則繁は少弐教頼と結んで九州に上陸し、大内教弘の軍勢と交戦しました(『宗氏世系私記』文安5年正月条)。

 しかし、この戦いで敗退し、則繁は播磨を経て河内に潜伏中のところを、甥の赤松則尚に討たれます(『東寺執行日記』同年8月8日条)。

 一体、何がしたかったのか良く分からない武将ですが、異様なエネルギーにあふれた人物だったのでしょう。

 

 以上のような後日談も、すべて史料が残っているからこそ明らかにできるのですが、現在では典拠となる史料も非常に読みやすいかたちで出版されていますので、特に学生の方にはとりあえず手に取ってみてほしいと思います。