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コラム 授業のひとこま 第11回 長崎の警護を命じられました! -鍋島斉正の書状-

2022-08-31

第11回 長崎の警護を命じられました!―鍋島斉正の書状― 

苅米一志(人文科学研究科長・人文科学部教授 日本中世史)

苅米研究室(日本中世史)には、数通の中世・近世古文書が所蔵されています。学部の「古文書解読」、大学院の「現地調査特論」などの授業でも、それらを参考資料として提示することがあります。今回は、その中から佐賀藩主・鍋島斉正(のち直正)の書状を紹介します。

まず釈文(活字になおしたもの)を示します。

一筆致啓上候、愈御堅固
可被成御座、珍重奉存候、然者
今年長崎当御番所、私可
相勤旨、被
仰出候間、松平美濃守、可申談由、
御老中御連名之御奉書、従長崎
御奉行相達、拝見之、難有仕合
奉存候、此段、為可得貴意、以
愚札、如斯御座候、恐惶謹言、

         松平肥前守
三月十三日     斉正(花押)
中院大納言様
     人々御中

訓読文と現代語訳は以下の通りです。

【訓読文】
一筆啓上致し候(そうろう)、愈(いよいよ)御堅固に御座成らるべく、珍重に存じ奉り候、然(しか)れば今年、長崎当御番所、私相勤むべき旨、仰せ出だされ候間、松平美濃守に申し談ずべき由、御老中御連名の御奉書、長崎御奉行よりの相達、之を拝見す、有り難き仕合(しあわ)せと存じ奉り候、此の段、貴意を得(う)べきため、愚札を以て、斯(か)くの如く御座候、恐惶謹言、
三月十三日    松平肥前守斉正(花押)
中院大納言様 人々御中

【現代語訳】
一筆啓上致します。貴兄におかれましては、ますます御健勝のことと幸甚に存じます。さて今年、長崎御番所の勤務を私が勤めるよう幕府から命じられました。それについて、松平美濃守(福岡藩主・黒田長溥)と相談せよと命じる、幕府老中御連名の御奉書および長崎御奉行よりの示達書を拝見しました。まことにありがたい幸せと思っております。以上につき、そちらにお知らせするため、愚状で以てこのようにお伝えします。恐惶謹言。
三月十三日 松平肥前守(佐賀藩主・鍋島)斉正より
中院大納言通知様へ

書状なので、年号は記してありません。そこで、いくつかの手がかりから年代を絞り込んでみましょう。

まず、差出人の鍋島斉正(「松平」は将軍から与えられた名誉称号のようなもの)が家督を継ぐのが天保元年(1830)のことですから、書状はそれ以後のものになります。

一方、文中に見える松平美濃守は福岡藩主・黒田長溥のことで、佐賀藩と福岡藩は隔年交替で長崎の警護をつとめています。この黒田長溥が家督を継ぐのが、天保5年(1834)のことですので、これにより書状の年代はさらにくだります。

差出人の中院大納言は京都の公家で、実は鍋島家と中院家とは数代にわたって婚姻関係があります。この時期で言うと、中院通繁が鍋島家の女性(斉正の祖父・治茂の娘)と結婚しています。

しかし、通繁は公卿に列せられておらず、したがって大納言ではないことになります(『公卿補任』などによる)。むしろ、この時期の「大納言」は権大納言であった通知(通繁の父)のことと考えられ、その死去が弘化三年(1846)のことです。

以上から、本書状は天保5年(1834)から弘化3年(1846)の間のものと考えられます。

少しだけ憶測してみると、隔年で長崎に勤番することは恒例のことなので、「勤番を命じられた」とわざわざ記すのには、それなりの事情があったとも考えられます。実は、弘化2年(1845)佐賀藩は非番の年にあたっていましたが、アヘン戦争(1840~1842年)などのこともあって、臨時の出勤が求められています。すると、書状はこの年(1845)のものである可能性が高いのではないでしょうか。

以上からこの書状は「佐賀藩主の鍋島斉正から、叔母(祖父・鍋島治茂の娘)の嫁ぎ先である中院家に対し、幕府から長崎警備を命じられたことを知らせたもの」と考えることができます。儀礼的なものなので、あまり意味がないと思われるかも知れません。ただ、これ以前の状況を考えると、鍋島斉正にとってはそれなりに思い入れのある内容であったと考えることもできます。

文化5年(1808)、イギリス軍艦フェートン号が長崎港に侵入し、オランダ人2名を人質にして、燃料や食糧を要求するという事件が起こりました。いわゆるフェートン号事件です。結果として、長崎奉行の松平康英は引責して切腹を遂げました。

一方、この年は佐賀藩が警護の年にあたっていましたが、従来の規定よりも少ない人員しか配置していなかったことが露顕します。その結果、佐賀藩の家老数人が責任を取って切腹、9代藩主・鍋島斉直(斉正の父)は百日間の閉門に処せられました。

その後、佐賀藩では江戸藩邸の焼失(1819年)、台風の襲来による被害(1828年)などにより、財政が傾いていきます。こうした中で天保元年(1830)に斉正が家督を継ぎ、著名な藩政改革を進めていきます。改革の中には長崎の軍備増強がありましたが、当初は幕府の支援が得られず、斉正は独自に西洋軍事技術の導入につとめます。

天保15年(1844)、斉正は長崎に来航したオランダ軍艦パレンバン号に自ら乗船し、そこで巨大な鉄製大砲に大きな衝撃を受けたと言われます。長崎の警護は、それ自体が斉正にとって西洋の軍事技術を学ぶ機会でもあり、また一方で、警護を十全につとめることは、父親と藩の汚名をそそぐことでもあったと考えられます。もし、この書状が弘化2年(1845)のものであるとすると、パレンバン号乗船の一年後にあたり、斉正にとっては最も気運の高まった時期でもあります。

そう考えると、この書状からは、警護の任に当たろうとする斉正の、勇み立つような姿が浮かんでこないでしょうか。

斉正は明治元年(1868)に直正と改名、同4年(1871)に死去します。その経営手腕からは「そろばん大名」、絶妙な対人関係のとり方からは「肥前の妖怪」とも称されましたが、開国論の主張や貿易の重要性への注目など、その功績により数少ない幕末の名君としても知られています。