2025.09.16
教員の活動
『趙正書』と始皇帝の後継者たち ―胡亥・子嬰―
総合歴史学科 准教授
渡邉 将智
秦では、始皇帝(在位:前221~前210)が死去すると胡亥(始皇帝の子)が跡を継ぎ、皇帝に即位しました。胡亥のもとで権勢を振るった人物が趙高です。趙高は宦官(去勢された男性で、後宮に仕えた官僚)であったといわれ、丞相(宰相)にまで昇りつめ、ついには胡亥を弑殺しました。趙高は子嬰という人物を擁立し、胡亥の跡を継がせます。子嬰は即位後に趙高とその一族を滅ぼしますが、地方では反乱が起きており、秦の支配が揺らいでいました。前206年、子嬰が劉邦(前漢の初代皇帝・高祖)の軍勢に降り、秦は始皇帝の死後わずか4年で滅びました。
漢(前漢:前206~後8、後漢:25~220)は、秦の政治に批判的な王朝でした。亡国の君主である子嬰に対しても、手厳しい評価を下しています。前漢の賈誼は「過秦論」という著作のなかで「もし、子嬰が凡庸な君主と同じ程度の才能を有し、中くらい才能の人物の輔佐を得たならば、地方が反乱によって乱れたとしても、秦の本土を保つことができたであろう」という主旨のことを述べています。賈誼によれば、子嬰の才能が凡庸以下であったことが、秦の滅亡の原因のひとつということになります。前漢の司馬遷は賈誼の意見に賛同し、『史記』秦始皇本紀にも「過秦論」を引用しています。
現在、『史記』秦始皇本紀には、後漢の班固が賈誼の評価に反論した文章が収録されています。班固は子嬰が趙高を滅ぼしたことを称賛し、「秦は衰退を積み重ね、天下が瓦解していたため、子嬰が即位した時にはなすすべもなかった。子嬰を責めるのは誤りである」という主旨のことを述べています。班固が編纂した『漢書』には、古今人表(図1)というものが含まれています。これは前漢以前の人物を評価し、9つのランクに分類した表です。「上上 聖人」が最上位で、「上中 仁人」「上下 智人」「中上」「中中」「中下」「下上」「下中」の順につづき、最下位は「下下 愚人」です。班固は子嬰を始皇帝と同じく「中下」と評価し、「下中」の胡亥や「下下 愚人」の趙高よりも優れた人物とみなしています。


子嬰に関しては、北京大学蔵西漢竹書『趙正書』(図2)という史料もあります。北京大学蔵西漢竹書は、2009年に北京大学が入手した総計3346枚の竹簡で、前漢中期に書写されたものと考えられています。「趙正」とは始皇帝のことで、『趙正書』には始皇帝の晩年から胡亥の死までの説話が50枚の竹簡に記されています。この史料からは、子嬰が胡亥を二度にわたり諌言する姿を確認できます。
第一の諌言は、胡亥が兄の扶蘇と臣下の蒙恬を殺して趙高に官職を与えようとした時に行ったものです。子嬰は次のように諌めました。「(秦の)国が危機に瀕して敵が近くに迫り、兵士が都の外に出払っている時に、朝廷の内では(胡亥が扶蘇ら)自らの一族を滅ぼし、忠臣(の蒙恬)を殺し、(趙高のような)節操の無い者に官職を与えようとしています。これでは朝廷の内では臣下たちが互いに信頼せず、外では兵士の心が離れてしまいます」(括弧内は原文に意味を補った箇所)。胡亥は諌言を聞き入れず、扶蘇と蒙恬を殺しました。
第二の諌言は、胡亥が丞相の李斯を殺そうとした時に行ったものです。李斯は「(胡亥が扶蘇ら)自らの一族を滅ぼし、従来の法令を破棄し、人々の功労をないがしろにすることにより、災いが起きようとしています」と警告しました。胡亥が李斯を殺そうとすると、子嬰は「(胡亥は)従来の法令を変え、忠臣(の蒙恬)を殺し、(趙高のような)節操の無い者に官職を与え、法令をほしいままに用いて政治を行わせています。(胡亥は)天下に対して不義を行いました。私は災いが後に起きることを恐れています」と諌めています。しかし、胡亥はまたしても子嬰の諌言を聞かず、李斯を殺し、趙高に丞相の職務を代行させました。
第一の諌言は、『史記』蒙恬列伝にもほぼ同じ内容で収録されています。これに対して、第二の諌言は、『趙正書』の発見によって初めて知られたものです。子嬰は二度の諌言を通じて、一族や忠臣を殺し、法令を変え、趙高を重用することの危険性を訴えました。第二の諌言につづけて、『趙正書』は「胡亥はいわゆる諌言を聞き入れない者である。即位してから4年で死に、国が滅んだ」と締めくくっています。秦の滅亡の原因は、胡亥が子嬰の諌言や李斯の進言に耳を傾けなかった点にあるということでしょう。漢は秦に批判的ではありましたが、『趙正書』と『史記』・『漢書』をあわせて読み解いてみると、当時の人々のなかには子嬰の事績を肯定的に評価する見方もあったことが分かるのです。
(文責:渡邉)
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