就実大学 人文科学部 総合歴史学科

2018.06.30 

【研究こぼれ話vol.001】劉備はなぜ「皇叔」と呼ばれるのか

教員の活動

総合歴史学科 講師

渡邉 将智

 

 中国古代では、前漢(前206~後8)の滅亡後に光武帝(前漢の皇帝の一族)が後漢(25~220)を建国しました。後漢時代末期になると群雄が割拠し、やがて後漢を滅ぼした曹魏と孫呉・蜀漢が覇権を争う三国時代(220~280)となりました。

 三国時代の興亡の歴史は、西晋(265~316)の陳寿が編纂した『三国志』という史書に記されています。この時代を題材とする小説が、明(1368~1644)の羅貫中が編纂したとされる『三国志演義』です。『演義』には個性豊かな英傑たちが登場し、中国だけではなく日本でも人気があります。

 『演義』の主人公格である劉備(蜀漢の初代皇帝)は、民衆や臣下に慕われる人徳をそなえ、後漢王朝の「皇叔」(こうしゅく。皇帝の叔父)にあたる人物として登場します。劉備が後漢の献帝(第14代皇帝、劉協)に初めて謁見した時、献帝は劉備が前漢の中山王劉勝の末裔で自分の親族にあたることを知り、臣下に劉氏一族の系譜を調べさせました。その結果、劉備が劉勝から数えて17代目の子孫で、献帝の叔父にあたることが判明しました。それ以来、献帝は劉備を叔父として礼遇し、人々も彼を敬って「皇叔」と呼んだ、というのです(図1)。

 『三国志』には、劉備が中山王劉勝の末裔であることが確かに記されています。けれども、『三国志』をはじめとする史書には、劉備が劉勝から数えて何代目の子孫であるのか記されていませんし、彼を「皇叔」と呼ぶ史料も見当たりません。劉備が「皇叔」として敬われたという話は、『演義』の創作ということになります。

 それでは、劉備を「皇叔」とみなす話はどのようにして生み出されたのでしょうか。そもそも「皇叔」の「叔」は父親の弟を意味します。また、『漢書』(前漢時代の歴史を記す史書)によると、中山王劉勝は、前漢の景帝(第6代皇帝)の子で、前漢の最盛期を築いた武帝(第7代皇帝)の兄にあたります。後漢の光武帝や献帝の祖先は前漢の長沙王劉発で、その劉発の弟が劉勝です(図2)。『演義』は、劉備が献帝の祖先の弟にあたる人物の末裔であることから、劉備を献帝の系統から見て弟にあたる系統の人物とする発想を得たのでしょう。また、161年生まれの劉備は181年生まれの献帝よりも20歳年上の人物です。劉備が献帝よりも年長者であることから、『演義』は劉備を献帝の父親と同世代の人物とみなしたと考えられます。これら史書の記述から想起した事柄を組み合わせて、劉備を「皇叔」として敬う話が生み出されたのです。

 

 このように、史書を紐解くと文学作品の創作の裏側を垣間見ることができます。こうした謎解きもまた歴史学の醍醐味なのです。

図1 献帝に謁見する劉備(『至治新刊全相三国志平話』巻中の挿絵)

図2 史書における劉備と献帝

    ※ 図2は筆者が作成

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