就実大学 人文科学部 総合歴史学科

2018.06.30 

【研究室訪問vol.001】第1回 苅米一志教授(日本中世史)研究室へ訪問

教員の活動

 大学の研究室は、研究や教育に関する文献や史料の宝庫です。また、教員の研究活動や教育活動の一端を垣間見ることのできる空間でもあります。同じような間取りでありながら、それぞれの特徴ある研究室を通してこのことが見えてきます。このコーナーでは、コラムと合わせて、研究室で語らうことのおもしろさをお伝えしていきたいと思います。

 第1回目は、学科長である苅米一志教授に研究室を訪問し、コラムで取り上げている史料「三河国吉田藩士連署願」を見せていただきました。実際に紙質を顕微鏡で確認し、史料の内容や伝来、保管方法などについてお伺いしました。また、このような文書は、屏風などに貼られ、人々の生活を彩る装飾として残されてきたことも、異分野である訪問者たちの興味を引きました。

 専門分野によって研究対象やその方法は異なり、時代や地域によってもさまざまなアプローチの仕方があります。それぞれの領域のあいだにある“壁”や“扉”の向こう側に足を踏み入れると、関心や視野が広がる可能性があります。学生の皆さんにも、自らの専門性も高めつつ、境界を越えた異なる領域の交流の機会を増やしてもらいたいと願っています。

 

【訪問日】2018年6月26日(火) 

【訪問者】中塚・三田・若見・渡邉 

【文責】中塚

【コラム】

「三河国吉田藩士連署願」について

 

総合歴史学科 教授

苅米 一志

 苅米研究室には、中世・近世の古文書が数点あります。紙質や墨色などを確認することを目的に、古書店から購入したものです。この中から、宝暦3年(1753)12月に三河国吉田藩の家臣が今切関所に宛てた文書を紹介します。ちなみに、この文書は慶安5年(1652)の太毛十屋栄佐他連署覚書と天和2年(1682)の青山忠雄直状とセットで売られていました。内容に共通点はありませんが、3点ともまわりに黒い桟目のような模様があります。おそらく元は同じ屏風に貼られていたものと思われます。

 では、内容に移りましょう。この文書は三河国吉田藩(幕末に豊橋藩と改名)の家臣が、今切関所(静岡県湖西市)の役人に、囚人14人の通行を認めるよう依頼したものです。この囚人14人が実は非常に興味深い存在なので、少し詳しく紹介したいと思います。吉田藩の城下町である吉田のそばには吉田川が流れ、ここに架かる吉田大橋は東海道の要所でした。そのため吉田大橋の工事や管理は、江戸幕府が行っていました。宝暦元年(1751)12月に幕府は吉田大橋の架け替えを決定し、財政難から加賀国大聖寺藩にその手伝いを命じました。大聖寺藩は加賀藩の支藩で、当時の藩主は前田利道です。吉田大橋は宝暦2年5月に完成しましたが、問題が生じたため宝暦3年10月に改修が行われることになりました。そこで利道は同月に、工事用の材木を江戸の品川から船で出発させました。船には船頭・水主らが乗っていましたが、三河国片浜沖(渥美湾沖)難破してしまい、やむなく船頭らは志摩国神島村に上陸しました。彼らは現地で捕らえられ、老中・堀田正亮の指示で「囚人」として江戸で取り調べを受けることになったのです。おそらく故意に船を難破させ、工事用の材木を不正に売却したのではないか、との疑いを掛けられたものと考えられます。この文書は、こうした経緯を吉田藩の家臣が今切関所の役人に説明し、通行を認められるよう求めたものなのです。

 短い文書ですが、江戸時代の政治支配の仕組みがよく表現された、貴重な内容であるといえます。

【編集】三田・中塚

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