2025.12.01
講演会
2025年11月22日(土)、D202教室において史学会主催の令和7年度公開学術講演会が行われました。本年は山形県立米沢女子短期大学日本史学科の吉田歓先生をお招きして、「日本古代都城の成立から中世都市平泉誕生へ」と題したご講演をいただきました。
講演の冒頭は吉田先生がお勤めになる山形県米沢市と岡山市との共通点を探ろうと、近世城下町と当地の大名の話から始まります。日本古代史の話を聞こうと、準備万端であった聴講者は「おやっ」という驚きを表しつつも、あっというまに軽快な吉田先生のお話に引き込まれました。米沢の上杉景勝と岡山の宇喜多秀家が聚楽第での豊臣秀吉の謁見に際して座席が隣であったことなど、とても興味深く拝聴しました。
本論は講演題目の通り、日本古代の都城の成立に関わるものです。一般的にも指摘されるように日本の古代都城は中国を模倣する形で成立します。しかし、細部にまで観察を行き渡らせると微妙な差異も見られます。そこに日本と中国の差異を見出していきます。とくに注目されたのは外交儀礼です。中国の場合は比較的皇帝の近くに外国使節の座が設けられるのですが、日本では天皇と使節の座は明確に異なる場に設けられます。この辺に日本の内裏(天皇の居所)の特徴が見いだせるようです。都の部分(京)についても、日本は朱雀大路にとても重心を置くという特徴があり、これが中国との差としてご指摘なされました。
講演は東北の都市・平泉へと進みます。都市平泉は東西に延びる基幹道路を主軸としています。これは南北を主軸とする朱雀大路とは決定的に異なります。天皇を中心とした都は平城京や平安京のように南北を軸とする朱雀大路に重心がおかれますが、平泉は天皇の都でも国家的な施設でもありませんので、自由に道路を設定できたのではないか、とのことです。場合によってはそもそも東西自体にも実は意味がなく、毛越寺が置かれた場所とその南門との関わりで、偶然にも東西になったのかもしれない、とのことでした。謎は深まるばかりです。
もう一点、都市を造る計画の中には象徴的な施設などを見通す“ヴィスタ”の思想があったのではないかとのご指摘があり、講演の結論に向かっていきます。米沢城を象徴する三階櫓は本丸の北辺にあります。しかし、大手門は東側ですので“ヴィスタ”にはなっていません。しかし、丹念に史料を探していくと、もともと大手門は北側にあったようです。ですので、城下町から大手門、そしてそこに三階櫓がそびえる、この関係はやはり“ヴィスタ”でしょう、と。再び近世城下町に戻り、講演の幕は下りました。
改めて吉田歓先生には感謝の意を表します。都城の歴史は非常に難解な研究テーマです。まして日中の比較研究からこれを分析していくのは、更に難易度が跳ね上がります。しかし、その難解さを微塵も感じさせないご講演でした。あっという間の90分。ありがとうございました。
(文責:鈴木)
