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就実公開講座 前期第5回 平成30年6月30日(土)

2018-07-02

「たたかうインド・ムスリムの女性たち」

 

 井上 あえか(人文科学部 総合歴史学科 教授)

 

 

 

 中世の南アジアにおいてはムガル帝国が統治していたが、宗教的にはイスラム教、ヒンドゥー教、ゾロアスター教などに交流があり共存的であった。19世紀の南アジアではイギリスによる統治があり、西洋文明と南アジア文明との反目があった。そのような中にあって、夫の死後に活躍したロカヤ・サハーワット・ホサインが女子校の設立や執筆活動に取組み、独自の社会活動を行った。これは当時の社会制度の中で許容される範囲であった。民族主義的な独立運動の機運が高まると、イギリスの価値観とインドの価値観とが比較され、自国の価値観の中でインド女性の美徳とされる「サティー」が一部で賞賛されるようになり、女性の再婚に関する論争を生んだ。さらに、民族の将来を担う子を育てる母親が無知であってはならない、という考えから、今でいう「良妻賢母」が推奨されるようになったが、男性が推進した社会改革であった。本格的な女性解放論議は独立後になされた。
 パキスタンの典型的な生活をしていたマララ・ユースフザイは高校生の時よりSNSを介して「子供・女性の教育」を訴えていたが、パキスタン・タリバン運動による銃撃を受けることになった。後にインド人の児童労働撲滅活動家ととものにノーベル平和賞を受賞したのは記憶に新しい。マララはイスラム的価値観とともに学校教育や権利などの西欧的価値観を有するが、欧米のマスコミによるイスラムの後進性と西欧的価値観の優位性が強調されるあまり、パキスタン国内ではマララを批判する世論がある。
 元パキスタン首相のベーナジール・ブットーは、ズルフィカル・アリー・ブットー元首相の長女である。軍事政権後の選挙によりパキスタン人民党党首として独立後、最年少・初の女性としての首相となった。アフガニスタンへの継続的支援やターリバーン支援を継続していたため過剰なイスラーム化を防ぐことが出来ず、再び軍政に戻った。汚職などの訴追を逃れ国外に移った後、帰国したが遊説中、暗殺された。しかし、今なお、「民主化の英雄」として扱われている。父から継承した普遍主義・ポピュリズムによるものであろうが、民主政治を確立するには至らなかった。
 他に女性政治家としては、バングラデシュの独立を果たし国父とされるムジブル・ラフマンの長女でバングラデシュ首相のシュイク・ハシナ、ジアウル・ラーマン大統領の未亡人カレダ・ジアが活躍している。
 南アジアの女性を取り巻く社会的不正義は名誉殺人、婚資をめぐる殺人、レイプにわたるが、これらに対し権力は、いまだに女性を守り切れていないのが現状である。近代南アジアのムスリム女性は時代の制約の中で、それぞれの形でたたかっている。