【卒業生メッセージ】K・Tさん

K・Tさん
大学院に進学して、20世紀の哲学・文学分野の学びをさらに深めています。
学科での学びを振り返るために、自分の卒業研究の成果である評論と研究ノートを読み返す。乱雑に畳んだ大風呂敷のような拙文を読むと、ぎこちなく据わりの悪い自分自身の姿を眺めているようで、どうしても気が滅入る。しかし、やはりそうした自分の「据わりの悪さ」に向き合い、言葉にするという営みこそ、私が評論ゼミで学び得た重要なものなのだと思う。
私が所属していた評論ゼミでは3年次には、主に欧米の哲学、現代思想、評論に関連するテクストを学生が分担して読解し、担当箇所を他の人にも理解できるよう自分の言葉で説明し直す、リテリングという作業を行う。そして4年次においては集大成として、ゼミ内で意見を交わしつつ、評論の執筆と、その推移を記録した研究ノートの作成に並行して取り組むことになる。評論には、小説作品や映画、アニメーション、音楽などのポップカルチャーから社会問題など、学生自身が興味、関心のあるさまざまな分野から題材を選ぶことができ、それらを論じることを通じて、社会的に自明なものと捉えられている価値観を批判し、相対化することを目指していく。
しかし、そうした自明なものを批判する意義とはどこにあるのだろうか。哲学や評論が投げかける難解で、いたずらに衒学的に思えるような言葉や問いかけに苦闘して、いったい何が得られるのか。どうして自分の趣味嗜好や、快不快の感情、流行をいちいち理屈っぽく吟味する必要があるのか。そうした議論に時間を費やすよりも、自明な価値観や常識といったものにどうにか折り合いをつけて生きていくことのほうがはるかに有益で、ある意味、誰にとっても切実な課題であるというのは、まさに自明なことであるようにも思われる。確固たる信念を抱くには、現実はあまりにも移ろいやすく、異議を差しはさむには、あまりにも強固で揺るがないもののように感じる。
私自身がそれでも、こうした自明性を批判的に捉え直すべきだと思うのは、それによって私たち個人、あるいは人間の複雑な在りようを見つめ直す機会が与えられると考えるからだ。私たちが哲学に触れて、あまりに難解で、自分には手に負えないもののように感じる時、速やかに自分にとって不要なものと断じてしまうのは容易なことではある。しかし、むしろ哲学は私たち自体の複雑さや、手に負えなさについて言語表現を通じて肉薄しているだけで、私たちは私たち自身の難解さに直面して圧倒されているだけなのかもしれない。
そうした哲学的な議論を、現代を生きる自らの問題意識と文脈に引きつけて応答すると言う点で、評論は創作と研究のあわいにある。あなた個人が日常生活や社会で覚えるささいな違和感は、分裂し、矛盾した現代社会の在りようといった、より普遍的な問題に起因しているのかもしれない。それまで慣れ親しんでいた文化作品の分析を通じて、逆に現実の不調和を見出すことになるのかもしれない。それらを言語で表現しようとする中で、言語自体が透明な媒体などではなく、手垢と誤解にまみれていて、思ったよりも不自由なものであることに気づくのかもしれない。
だとしても自明性では割り切れない、理想と現実、衝動と惰性、希望と失望に引き裂かれたあなたの複雑さを簡単には手放さないでほしい。そうしたあなたの据わりの悪さや、揺らぎにこそ、常に現在を相対化し、異議を申し立てるための余地が、特異なものから普遍なものへと繋がる地平があるはずだ。そして現実でなんとか折り合いをつけようとしているあなたにこそ、あるべき理想について語ることを諦めないでほしい。少なくとも表現文化学科はそうした試行錯誤が許される、貴重な場の1つであると私は思っている。
