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吉備地方文化研究所 研究活動
コラム 研究のひとこま 土地の権利に「瓦」が関係するということ
2022-10-13
土地の権利に「瓦」が関係するということ
吉備地方文化研究所 所長 苅米 一志(人文科学部 教授)
2020年度、吉備地方文化研究所では『吉備地方中世古文書集成(3) 備前本蓮寺文書』を刊行しました。
本蓮寺は少なくとも鎌倉時代には建立されていた寺院で、のちに日蓮宗寺院となり、瀬戸内海における同宗の展開に大きな役割を果たしました。
同寺は瀬戸内市牛窓に所在しますが、牛窓は古代から中国・朝鮮とも関係をもつ重要な港でした。
そのこともあり、本蓮寺には舟運で富を成した人々から多くの土地が寄進(寄付)されています。
土地の寄進は「寄進状」という文書によってなされます。
寄進する土地の所在と面積、寄進にあたっての条件などが記されますが、この寄進状の文中に、しばしば気になる表現が見受けられます。
土地の種目(田・畠・屋敷など)の下に「瓦」という文字が書き込まれているのです。
実は、岡山県内の他の寺社文書においても、土地の種目の下に「瓦」と書き込まれている例が多数見られます(金山寺・安養寺・長法寺・豊楽寺・吉備津神社・安仁神社など)。
こうした例は、現在のところ、岡山県下の寺社に限られるようです。
少なくとも岡山県域において、土地と「瓦」は何かしら結びつきをもつものとして意識されていたことがうかがえます。
では、この「瓦」という文字にはどういう意味があるのでしょうか。
この疑問に、まったく異なる素材から切り込んだ研究者が、古代史家の岸俊男氏でした(岸「『矢田部益足買地券』考釈」『倉敷考古館研究集報』15号、1980年)。
そして、その素材というのが、他ならぬ岡山県域における出土遺物だったのです。
公益財団法人倉敷考古館には、江戸時代(1820~30年代頃)に発見されたと伝えられる二枚の塼(せん。一種のレンガ)が所蔵されています。
倉敷市真備町から出土したものと伝えられますが、いずれにも天平宝字7年(763)10月16日の日付が刻まれています。
銘文からは、矢田部益足(やたべのますたり)という人物が、白髪部毘登富比売(しらかべのひとふひめ)という女性の墓地として、土地を買い取ったことが分かります。
これがわざわざ土中に埋められたのは、その場所がまさに買い取った墓地そのものであり、土中の何らかの存在(土地神・地主神)に対して契約や宣言をしようとしたからだと理解できます。
こうした風習は、中国・朝鮮の道教などの影響を受けたものと考えられますが(江優子「後漢時代の墓券に関する一考察」『仏教大学大学院紀要』33号、2005年)、岡山県域は古代において渡来系の人々が多く土着した地域としても知られます。
以上から、中国・朝鮮の文化の影響を受け、この地域の人々が土地買得の証明書を塼に刻み、土中に埋めたと考えることができます。
ここからさらに推測を進めてみると、その後、岡山県域では土地買得の証明書を塼あるいは瓦に刻んで、土中に埋納するという風習が続いたと思われます。
しかし、土中への埋納という行為そのものは廃(すた)れ、「土地=瓦と何らか関係するもの」という観念だけが残った。それが、先の寄進状に現れていると考えられるのではないでしょうか。
もう一つ、妄想のような思いを巡らせることがあります。
10世紀末以降、瓦に経典の文句を刻んで、土中に埋納するという行為が全国的に広まりました。
このような瓦を「瓦経(がきょう)」、これを大量に埋めた地中の構造物を「経塚(きょうづか)」と呼びます。
瓦経の銘文によると、釈迦の死から56億7千万年後、弥勒菩薩がこの世に現れた際、土中に埋めた経典類が地上に湧き出て、それを造った人々を優先的に救ってくれるというのです。
しかし、この瓦経や経塚というものが、具体的にどういった起源をもつのかは、いまだにはっきりと分かってはいません(上川通夫「摂関期の如法経と経塚」(『関西大学東西学術研究所紀要』46号、2013年)。
ただ、「銘文を刻んだ瓦のようなものを土中に埋め、何らか超自然的なものに働きかける」という点において、先の風習と瓦経は共通する性格をもつと見ることはできないでしょうか。
個人的には「瓦経や経塚の発案には『往生要集』の作者・源信が関わっている」「そのアイデアの源流には土中に銘文つきの塼を埋める古代の風習がある」と考えているのですが、まだまだ証明は難しいと言わざるを得ません。
実は、倉敷考古館には倉敷市浅原の安養寺から出土した瓦経も所蔵されているのですが、先の塼の出土地点と近いこととあわせて、上記の妄想を支える材料となるような気もしています。